脳に個人差はあるのか?

 「脳の情報処理」という本を読んでいます。脳に興味を持ち始めて、いいろいろな本をちょっとずつ読み始めてんでいるのですが、この本は、概要書という意味では、とても分かり易い、教科書だと思います。
 この本を読んでいて、やはり、脳にも個人差があるのではなかろうかと改めて思いました。脳の仕事が、情報処理だと割り切ると、情報処理がたくさん出来る脳のほうが有利です。それは、すなわち、脳の大きさというか、神経の数、キャパシティが大きい脳が有利ということになるような気がします。
 脳が処理している情報は、視角や聴覚、思考や記憶など、いろいろなものがありますが、それぞれの処理は、いろいろなところに分散されてれているようです。つまり、視角処理に使われるところ、聴覚処理に使われるところ、思考に使われるところなど、いろいろな系を通って処理されるようですが、それぞれの処理のとき使われないところもあるようです。ということは、その使う部分の処理能力が高い人は、それにまつわる能力が高いということになります。感情豊な物語が書ける人と、数学の得意な人は、使っている脳の部分が異なっていて、その部分の処理能力が高いということになるのではないかと思うわけです。
 果たして、この能力差というのは、努力の積み重ねによって、後天的についたものでしょうか、それとも、既に備わっていた先天的なものなのでしょうか?学者達は、全ての説明を後天説、すなわち、学習による積み重ねで説明しようとしたらしいのですが、どうも、無理があるらしいです。
 スポーツの世界でも、例えば、筋肉の質が、日本人と黒人では違うといいます。これは、先天的に与えられたもので、後から、いくら鍛えても、変わることは、ありません。同じように、脳の部位にも、例えば、大きさや質に差があるのではないかと思うわけです。なので、努力によって超えられないものは、やはり存在するような気がします。それが、天才と凡人の違いということではないでしょうか?
 ただし、脳は、学習能力が高い、すなわち、どんどん変化する特殊な機能を有しているところなので、他の所と比べると、後天的に変化出来る部分は多いと思います。なので、努力が無駄になるとは、思いません。やればやるだけ(刺激を与えれば、与えるだけ)、どんどん、変化していく部位のようですから。ただ、同じことをやれば、同じように天才になれるかというと、練習すれば、誰でも能力値の高いスポーツ選手になれるかという命題と似ている気がします。
 部位によって脳の情報処理能力に先天的に個人差があるとすると、ここに得意不得意が出てきます。得意なことは、好きなことになりやすく、好きなことは、なんども繰り返し学習する(努力する)ことが楽しくて苦にならないので、学習により得られるものも多くなり、後天的な能力も身につくという正のループができあがります。
 また、脳の部位に個人差があるということは、その処理を行って得られる結果は、人によって違うということになります。つまり、出来る人と出来ない人で見えている世界が違う。そして、それは、見えない人にとっては、見えている人のいっていることが理解出来ないということになるような気がします。
 こんなことをつらつらと考えると、人は自分が出来ることは、みんなも出来て当たり前とか、人はみんな一緒なんだと考えがちですが、実は、ひとりひとり、全然違うのかも知れません。
 
 この本には、他にも、面白いことがいろいろ書いてありました。意識の話なんて、興味深いです。まだまだ、不思議がいっぱいで、興味が尽きない分野です。

脳の情報処理―選択から見た行動制御 (ライブラリ情報学コア・テキスト)
脳の情報処理―選択から見た行動制御 (ライブラリ情報学コア・テキスト)

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